雑記 押井守映画祭(『御先祖様万々歳』等)、『団地』、『黄金のアフガニスタン展』
最近面白かった映画や展覧会についてざっくり書きます。
『押井守映画祭』
池袋新文芸座で行われたアニメスタイルオールナイト『押井守映画祭』。今回の目玉は『御先祖様万々歳』全話一挙上映だったと思う。
以前この映画祭で総集編『MAROKO-麿子-』が流れたことがあったけど、これについてトークショーで押井守は「僕はあんまりMAROKO好きじゃない」と言い切っていた。いわく「一番面白いムダなところが全部削られている」。
そして実際に見た『御先祖様万々歳』全六話、たしかに「ムダなところ」が異常に多い。しかしそんな圧倒的に不経済なムダの数々が正しく面白いのだから不思議である。
押井監督と千葉繁さん、アニメ様とライターの桑島さんが登壇したトークショーにあった発言で一番覚えているやり取りは、
千葉「舞台でありうるようなノイズ、台詞を言うために下っ腹に力を入れて出てしまうオナラとかをわざとたくさん入れてる」
押井「本来、人間の動きにはムダなところが大量にある。それを出来るだけ拾う」
うろ覚えだけどこんな感じのやつ。なるほど、動きと音のノイズ。台詞だって地獄のように胡乱で七面倒くさい理屈だらけだ。見やすさというものに完全に背を向けて、音の次元と動きの次元、演出の次元でそれぞれ偶然を捏造し、現実のパロディである舞台のそのまたパロディを作るという、色んなところでノイジーな作劇。深夜にひたすらこれを見て、『天使のたまご』『立喰師列伝』と続く鬼のようなラインナップ。逆に眠くならない。こうして戸籍不詳の孫娘から始まり国籍不明のインド人で終わる夜は理屈っぽく更けていくのでした。
押井守オールナイトとなると必ずアニメ様と桑島さんが自然にスッと混ぜてくるものだから一体何度見たんだかもうわからなくなってる『天使のたまご』。「水」のモチーフや緩慢な画面運び、そして押井さんの言葉からこれがアニメでタルコフスキーをやろうとしたものだっていうのはおそらく確かだと思うのだけど、改めて意識して見てみると、その「アニメでタルコフスキーに迫ること」の途方もない難しさを思い知る。
タルコフスキーの凄みは画面上にはびこる光や草、そして水といった自然の微粒子レベルの運動を切り取ることで時間と空間を演出する妙技で、それはアニメでは殆ど不可能に近いのではないか。それはもちろんアニメと実写を比較しての優劣の問題ではないけれど。
『黄金のアフガニスタン展』
講義でオリヴィエラの『永遠の語らい』を見た。ボンペイやアテネなど文明を象徴する様々な遺跡を巡りながらポルトガルからインドまでの航路を進む母娘の旅を追う、なんとも退屈なほとんど演出なんてなされていないかのような映像がひたすら続き、それらが最後の文字通り爆発的なエンディングによって、歴史を建築する広大な時間そのものの寓意になっていたんだって気付く。つまり西から東へと文明を巡る物語であり、それは現代、文明が直面している原理主義的暴力を描いて終わるのだ。
その翌日に、全く意識せず、友達と上野でやっていた『黄金のアフガニスタン展』を見に行った。ソ連の軍事介入や内戦という暴力をギリギリで回避した、たくさんの文化が展示されていた。かつてシルクロード上の『文明の十字路』として栄えた遺跡から発掘されただけあって、その空間はまさに文明のキメラ。王の墓から掘り起こされた衣服には黄金が散りばめられ、ギリシャ建築とインド装飾が並び、ギリシャ神話と仏教が自然に同居する。長い時間と広い地域の文明を、オリヴィエラの冗長な映像詩を反芻しながら浴びて行く、なんとも稀有な体験だった。
『団地』
「シネ砦」か何かのインタビューで阪本順治監督がSFへの興味を語っていて「マジか?」と思いながらそれが映画になるのを楽しみに待っていた。まさか『団地』だとは思わなかったけれど。
団地映画といえばもちろん最近は是枝監督の『海よりもまだ深く』があった。是枝監督の団地演出は団地という空間の楽しさを描いていて滅茶苦茶良かったものだけど、しかしこっちの団地演出はそれだけではない。団地という空間の楽しさはもちろんのこと、団地に生起する人間関係の息苦しさも描いていた。
小さな噂が巨大な疑いに化け、ちょっとした信頼が反感に逆転し、さもしい欲望が途方もない哀しみを産む、「しょうもない」という関西の言葉がぴったりと当て嵌まるような小さい、しかし時々ビックリするほど大きくなる人間の嫌な部分が凝縮された団地という場所。それがまたクルッと転換して別世界、別次元への入口に変化する。そのおかげで産まれるおかしなパースペクティブが、この映画のまとう巨大な厭世観を際立たせている気がする。
狭く息苦しそうな、だからこそ撮り方によっては無限の表情を見せてくれそうな細部を持つ団地の部屋で、エクストリームにおばちゃんな藤山直美とおじさんな岸部一徳の演技が活きる。しかし、二人は「所帯じみた」存在であるのと同時に、そこから遊離した存在としても演出されているように見える。この世に在る理由をゴッソリ奪われているような。それは登場人物の一人である少年も同じだ。彼らの「そこにいるし、そこにいない」という佇まいが、終盤の展開に結実する。
そして斉藤工が素晴らしかった。首に一瞬遅れて追いつく目の動きについて、ほんとこの人たくみだなぁって溜息もれた。
『FAKE』
猫がかわいい。
最近見た映画『シビル・ウォー』『ハッピーアワー』『アイアムアヒーロー』他
とりあえず見たものについての雑感を残しておこうと思います。
『シビル・ウォー キャプテン・アメリカ』
DIVIDEDなアベンジャーズからキャップが抜けてバッキーと駆け落ち(FALL)っていうのは冗談だけど、本当にアベンジャーズ2.5な感じで『キャプテン・アメリカ』3作目であると同時にマーベルユニバースの世界全体が更に動き始めるという、ここまで付いてきた人には何重にもお得な映画だったと思う。
沢山のキャラクターの感情の線が幾重にも絡まり合うこのストーリーのなかで、僕が最も気になった、というか好みだったのは主人公キャップのものでも相棒バッキーのものではなくて、アイアンマン=トニー・スタークのものだった。正確にはトニーと、ピーター少年が絡まる線。
冒頭でトニーは奨学金制度のプレゼンテーションを行っていたりして、どうもエゴの塊だった自分の半生から卒業し次世代に何らか託そうという気持ちになっているらしい。そんなトニーが新世代の若者として見つけたのが、無私の行いで人々を救おうとする、歴代一ショタっ気のあるピーター・パーカー。この二人の関係性がとても好きだった。
トニーとキャップの間には父子の関係があったと思う。理念的に正しくて、ぶつかってばっかで目の上のたんこぶで、本当のオヤジの友達で、でも普通にアベンジャーズの仲間でもあってっていう複雑な疑似父子関係だ。その関係を一度清算するために、一度DIVIDEする必要があったという側面もあったんじゃないかと思う。そしてその後、子供として本当の父と疑似父との沢山の事情に一応の決着をつけたトニーは、大人として別の子供に自分が得た何かを託そうとしているような感じがする。中盤の山場であるオッサンと若者のダブルルーキー大活躍な大混戦のあと、ぶっ倒れたスパイディを本気で心配するトニー/ダウニーの表情が凄くよかった。あれはお父さんの顔だったと思う。
つまりどうにも父のフェイズに移行しようとするトニー・スタークの映画に見えて仕方なかったのだ。
スパイダーマンの新作『ホーム・カミング』はトニーも出るって言うし、本当に楽しみ。あ、あとアントマン最高。
大学の方で最近、ニューディール政策以降のポピュリズム(人民主義)やその時代のフランク・キャプラ『スミス都に行く』からの流れから見るサム・ライミ版『スパイダーマン』シリーズという文脈について教わっていて、そういうポリティカルな方面もキャップシリーズの流れを見るにちゃんと抑えてそうだから楽しみではある。でも何よりショタっ気スパイディが見たいのだよ。
『ズートピア』
僕は人種の違いや性差のあるコンビ、つまりかつてあった、あるいは今も何処かで軋轢のある「種族」であるはずの二人が、軽妙でどっか洒脱なかけあいを見せてくれると自動的に完全に幸せになる良い病気を持っていて、そうなると『リーサルウェポン』とか『ダーティハリー』とかがホントに最高になってくるし、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』もコンビどころじゃないけど大好きだった。
だから『ズートピア』は本当に好きだった。プロローグすら覚えてられないヤツの世界観への難癖とか本当にどうでもいいよ。くだらない。
シリーズ化、絶対して欲しい。
『ハッピーアワー』
ようやく見た5時間超の濱口竜介監督の話題作。4人の30代後半の女性たちを中心にした悲喜こもごも、だなんて言葉じゃ片付けられない膨大で最高な細部がギチギチに詰まったドエライ映画。
関係ないけど最近友達にすすめられて矢内原伊作の『ジャコメッティ』を読んでいて、そこに描かれているものなかに、フランス、パリのアトリエを訪ねた矢内原さんの顔を一生懸命に描こうとするジャコメッティの姿がある。何日もかけて何度描いても「違う」「そうか、発見したぞ」「違う、絶望だ」「これまでの全ては今朝のためにあった」「駄目だ」という失敗と発見の繰り返しで、稀代の芸術家ジャコメッティの「真に対象を描くこと」という到達不可能かも知れないものに対する鬼気迫る執念が矢内原さんの落ち着いた筆致で書かれている。
なんだかそんな本を読んでいるときにこの映画を見てしまったから、こじつけかも知れないけど、ジャコメッティと同じような、表面しか見えない視覚では捉えがたい内容物を抉るように、表層を描く/撮るという途方もない意識を見てしまった気がする。
何しろこの映画は五時間超もある。主要登場人物たちはそんな長い時間のなかで小さな嘘や変な告白や罅が入った家族の問題やら性愛やらの影響でほんの微妙な表情の変化を幾度となく繰り返していく。それぞれの多様な表層をあらゆる側面から見て、もう何もかも知っているような気になったと思ったら、次の瞬間にまた意外な行動を取ったりして、でもその意外な行動は完全に納得できるものでもあったりする。
印象的だったのは「言ったら、嘘になっちゃう場合もあるでしょう」みたいな台詞。最近、大江健三郎の『万延元年のフットボール』で引用される谷川俊太郎の詩『本当のことを言おうか』っていうのがずっと引っかかっている。この小説のなかで、というかたぶん大江さんの小説のなかで往々にして何らか奥深い傷を負っている人は「本当のこと」は言わないし言えない。でもそこに肉薄するために言葉も表現もある。
この映画が本当に好きだったのはそのあたりで、本当のことを言うことや相手を理解すること、嘘をつかないでいること、大事な相手の求めることを全てやること、その絶対的圧倒的不可能性とままならなさを完全に突き詰めて描き切ったあとで、それでもこの4人のおばさんたちはこれからも色々あってまだまだ友達だろうなきっとっていう未来を予感させる。
見てまだ24時間くらいだからこれからどんどん思い出してきそう。メインの4人だけじゃなくて他の人たちも異常にビビッドでキャラとして捉えきれない人間ばっかなんだよなぁ。
コナンの映画を劇場で久々に見たけど本当に面白かった。本編をしばらくちゃんと追えてない身だけど、冒頭からフルスロットルなアクションと大がかりな舞台仕掛けで映画!って感じがして本当に好き。あと逆襲のシャアでJUST COMMUNICATIONだった。
『レヴェナント 蘇りし者』
レオ様の演技はいつだって最高で物語に破綻は全くなく、最高の撮影技術が捉えた荘厳な自然の映像をそれに上乗せしてハイどうぞって出されて、どうしてこんな哀しい気持ちになるんだろう。凄くゴージャスな映画なのに辛かった。『X-MISSION』が見たい。『X-MISSION』を見せてくれ。おい。
『クレヨンしんちゃん 爆睡!ユメミーワールド大突撃』
三原さんのデザインした夢世界の極彩色の暗黒っぷりも素晴らしくて、芸能界ギャグも冴えわたってて好き。とにかく明るい安村史上最も楽しい安村を見た。でもこの人フライデーされたんだよね。主題歌はダメでそれは良いのか。良いか別に。
ただ、これは他の方も指摘していたけど、最後の決着のつけ方が唐突のような気がしてる。確かに春日部防衛隊の世界と野原一家の世界は絡ませづらいんだけど……。
『海よりもまだ深く』
家庭内と周囲との関係に難易度の高すぎる問題がある環境で育ったので、団地という強制的に周りに話す相手がいる居住空間に憧れがある。まぁ、そう良いものでもないだろうけど、憧れは憧れだ。そんな憧れの団地の、特に美化したから現れ出たわけでもなさそうな魅力的なところが沢山出てきた。
家のなかで常に誰かがしゃべっていて、それを絶対に誰かが聴いている。とにかく狭いから、誰かが行動を起こす例えばお婆ちゃんが冷蔵庫を開ければその前に座ってた姉ちゃんは背中まげて避けないといけない。狭い環境って誰かがいればそんなに貧しいものでもないよなぁ。樹木希林さんがお婆ちゃん役だからそう思ったのかな。達人だから、あの空間を最大限豊かにする動きも喋り方もわきまえてそう。
数年前に『みなさん、さようなら』があって、もうすぐ『団地』がある。団地は本当に面白いなぁ。
大泉洋も長澤まさみも有村架純もドランク塚地も全員みんな本当に全力で役者として生きようと覚悟持って踏ん張っている感じが、映画のなかで描かれる死に瀕した人たちの生命力に還元されているように思った。ゾンビ映画の人間役にやる気のないやつはいちゃいけないんだ。
そしてこの映画で本当にゾクッとして未だに脳裏から離れないのは、閑静な住宅街が閑静なままにパニックが染み渡りゆくあの一連。あの混乱寸前、秩序と無秩序のボーダーラインの情景は本当に素晴らしいの一言。
アニメレビュー勉強会に提出した『ラブライブ!』原稿
どんな会なのかなと気になって、4月30日に行われた藤津亮太さん主催のアニメレビュー勉強会に行ってみた。
事前に提出した原稿を各自で読んで点数をつけて、藤津さんが中心となって講評する。僕のはたぶん4位くらいだったと思う。なかなかくやしい。レビューのフォーマットの違いも面白かったし、そのあとの打ち上げも滅茶苦茶たのしかった。色んな人生があるんだなぁというフツーのことをツヨク思った。
『ラブライブ!』の映画はこのために見たんだけど、正直あんまり好きにはなれなかった。でもその好きじゃなさを面白く書く技術もない。ならば正攻法しかないじゃないと思い、締切ギリギリになってから必死で自分を洗脳し、3時間だけ史上最強のラブライバーになったつもりで全ての偽装愛を原稿にぶつけた。でもそんな感じでも書いてる最中はホントに好きな気持ちを心のなかに確認する瞬間もあったりして、今もちょっと好きな感じになってたりする。自分の書いたものに影響を受けるっていうやつ。
そうして出来上がった原稿、「キャラクターに寄り添っててラブライブ!が好きなんだなと思った」という感想を貰って「しめしめ」って感じだったけど、あとで致命的なミスを指摘された。「穂乃果」の「果」の字を全部「花」って書いてたのだ。ボロが出るってこういうことを言うんですね。
下のはその原稿。「花」は「果」に直してあります。すまねぇラブライバーたち。今はこの映画ちょっと好きです。
タイトル:「明日に向かって跳べ!」 想定媒体:映画雑誌のアニメ特集
時と場所に関係なく、自由に元気に歌って踊る、スクールアイドル「μ’s」の笑顔。学校、秋葉原、ニューヨーク。スクリーンに映されるすべての空間が、彼女たちのステージになる。
MVに誌上企画、そして二度のTVアニメ化と、メディアの枠を跳びこえて、すべてを自分たちのステージに変えてきた「μ’s」の面々。そんな彼女たちの新たな、そして最後のステージがこの映画『ラブライブ!The School Idle movie』だ。
廃校の危機、友情の危機、グループの危機。様々な危機を乗りこえて、固い絆で結ばれた高坂穂乃果の率いる「μ’s」は、ついにスクールアイドルの甲子園「ラブライブ!」での優勝を果たす。しかし女子高生である以上避けられない、3年生の「卒業」という終わりを目の前に、穂乃果たちは「μ’s」の解散を決定する。そんな解散間近のスクールアイドルたちに依頼されたのは、次回ラブライブ!大会への協力、そのためのニューヨークへの旅立ちだった。
空港から飛び立つ飛行機を眺め、目を輝かせた穂乃果が言う。「私たち、行くんだね。あの空へ。見たことのない世界へ!」。見たことのない世界へ飛ぶ――跳ぶこと。この台詞がアバンで描かれる幼少期の記憶、笑顔で水たまりを跳びこえる穂乃果の姿と重なって、映画は一貫したテーマを提示する。卒業という終わりを新しい始まりに変えて、次のステップへ跳びだすこと。シンプルだがこれ以上なく力強い一つのテーマ。しかし、そのステップはどこへ向かって、どんな風になされるのだろう?
ニューヨークでのライブに最適な場所を探す観光のさなか、他のメンバーとはぐれてしまった穂乃果は、路上で歌う謎の女性シンガーと出会う。穂乃果をホテルへ送る途中、過去の自分にアドバイスするように意味深な言葉をささやく、どことなく穂乃花に似た女性。仲間たちのもとに穂乃果を送り届け、忽然と姿を消してしまった彼女は、一体何者なのだろう。もしかして未来の穂乃果……なのだろうか。
そして帰国した彼女たちを待っていたのは、たくさんの新しいファンだった。ニューヨークでのライブが評判を呼び、スクールアイドルという形をやめてでも「μ’s」が存続することを求める声がだんだんと強くなる。
今後についてまた悩みはじめてしまった穂乃果は、ニューヨークにいたはずの女性シンガーと再会する。気が付くと周囲は花びらが一面に舞い、目の前には湖のひろがる幻想的な空間となっている。湖の側にたたずむ女性が穂乃果に語りかける。「跳べるよ。いつだって跳べる。あの頃のように」。走り出した穂乃果が、女性の横をすりぬけて、跳ぶ。
次のカットでは自室で起床する穂乃果が描かれる。なら、あの女性と穂乃果がいた幻想的な空間は夢だったのだろうか。おそらく、それはどちらでもないのだろう。たとえばあの空間を、たびたび挿入されるミュージカルパートと同じ飛躍として見るのはどうだろうか。ストーリーの進行中にキャラクターたちが踊りだし、歌が始まる。アニメーションの特性を生かした目まぐるしいカットの切り替わり、舞台の転換、衣装チェンジ。ここでの世界の法則はリアリズムから大きく離れていながらも、同時にしっかりとストーリーの一部に組み込まれている。リアルと幻想の狭間にある、曖昧な劇空間。それを許容するのがアニメ『ラブライブ!』の世界なのだ。だからあの女性も、あの幻想的な空間も、決定不可能な曖昧なものとして存在できるのではないだろうか。
あの女性は未来の穂乃果なのかも知れないし、そうではないのかも知れない。一度目は現実で、二度目の出会いは夢だったのかも知れない。穂乃果は将来、歌手になるかも知れないし、そうならないかも知れない。曖昧な描き方で解釈は大きく広がって、それはそのまま穂乃果の未来の可能性となる。
結局「μ’s」のメンバーは解散し、それぞれ「見た事のない世界へ」跳ぶことを決める。
TVアニメからこの劇場版に至るまで、頻繁に描かれてきた穂乃果のダッシュと、彼女が引っ張ってきた「μ’s」のダッシュは、「見た事のない世界へ」跳び立つための助走になる。ニューヨークという場所もステージに変えた彼女たちなら、跳び立つ先がどこであろうと大丈夫。この確信を曖昧さのない揺るぎないものとして観る者の心に刻み込んで、映画と「μ’s」のライブは幕を閉じる。
『遊戯王 THE DARKSIDE OF DIMENSIONS』を試写会で見ました
(ネタバレなし、かも)
映画は宇宙からはじまる。カメラは散在する星々をすり抜けて段々と地球に近づき、大地に根をはり静止軌道を越えてそびえ立つ長大な建造物にフィックスされる。その、例の青い眼の龍みたいに白い建造物が形作っている「KC」という文字。「KC」とは「KAIBA Corporation」!!ということはこの宇宙エレベーターはあの方のもの!!!宇宙はもう社長の領土!!!
『遊戯王』20周年記念の映画最新作にして高橋和希先生製作総指揮による原作の更にその先を描いた正当な続編映画……という前提から想像できるのは、各方面のファンを総じて満足させる祝祭的オールスタームービーという内容だ。何より長い歴史を持つ作品だけに、皆を満足させることだけでも相当にハードルが高いはずだ。しかし……しかし……。
しかし!!『遊戯王 THE DARKSIDE OF DIMENSIONS』は違った。なんかもうホントに全然違った。そんな次元の代物じゃなかった。なんなんだアレは。誰か教えてくれ。そのために全員見てくれ。
エジプトでの遊戯との決闘(と書いてデュエルと読む)を終えて、アテムは現代の世界から去っていった。それから一年の時が経ち、遊戯たちは高校の卒業を控えている。それぞれの将来を考え、前向きに夢を話す仲間たち。そう、この映画はなにより卒業についての映画だ。高校からの卒業、仲間たちがいる空間からの卒業。そして遊戯にとっては更にアテムのいた時間からの卒業がテーマになる。
アテムのいた時間との決着という意味ではもう一人、重大な想いを抱えた者がいる。そうだ。社長だ。海馬瀬人だ。
原作のラストで綺麗な形での別れをとげた遊戯とは逆に、どこか置いていかれた感の残っている海馬は、まだまだアテムにこだわっている。自分に勝ち越したまま目の前から消えて行ったアテムへのこだわりが、今作における海馬の全ての行動の原動力であり、この映画全体の原動力でもあるのだ。そしてそんな社長の常にキレッキレで異常な覇気をともなった一挙一動一投足は、この世界にはもういないアテムに追いつくために必要な、音速も光速も越える速度に至るための準備運動なのだ。なんの誇張でもなく。
最初に「宇宙はもう社長の領土」って言ったのはあんまり冗談じゃなくて、宇宙エレベーター建造レベルの財力とオーバーテクノロジーと神を素手で喚ぶレベルの意志力をその手にした男がそこまで到達してしまったら、じゃあその次にどこへ向かうか、という問いを勝手に用意して勝手に答えてるのだこの映画は。成層圏越えたらもう光速を越えて○○に至るしかないでしょう。そうですこの映画はSFです。インターステラーで機動戦士ガンダム00-A wakening of the Trailblazer-で更には社長による社長のための一人マッドマックスです。そんな感じで一人だけキング・オブ・プリズムを越える速度と物量をもって駆け抜ける海馬瀬人。とにかく普通の登場の仕方をまったくしない。出てくるたびに必ず観客がざわついていたし、何かしらの笑いの声が聴こえてくる。その笑いはたぶん馬鹿にしたような笑いではなくて、如何様な感情にも還元できない圧倒的なシロモノを直視した人間がなんとかそれを処理しようとするときに出てくるアレだ。あと社長、結構な頻度で法に触れるけどそれはもう社長だからしょうがない。嫌なら童実野町に住むんじゃないよ。
スタッフにも大注目で、高橋和希先生が脚本もコンテも原画もやっている。全体的に物凄くこだわっているようで、細かい原作の要素を拾ったり、「え、その人がそういう関わり方してくるの」という部分もあったりしてとにかく純度が高く精巧な原作『遊戯王』の続編なのだ。あとなんか知らないけどアゴのやつも拾ってた。更にはアニメシリーズで伝説的な美麗作画を連発した加々美高浩さんがキャラクターデザイン・総作画監督なのでキャラクターたちは常に最高の一瞬だ。妙に艶めかしい遊戯。神々しすぎるファラオ。杏子のふともも。社長の腹筋。社長の目つき。社長のドロー。社長のトラップカード発動。社長のブルーアイズ召喚。一体観客は何回ブルーアイズ系のバーストストリーム的なやつを浴びたんでしょうか。たぶん両手じゃ数えきれません。津田健次郎さん本当にお疲れ様です。
言葉が全然追い付いていないけど、この映画が信じられないものを見せてくれる映画だということは間違いない。試写会によく行っている先輩が「試写でこんなに拍手が起きるのはあんまり見たことない」というくらいの拍手が自然に起こっていた。
もういないはずの「あの人」の扱い方にはみんな唸ると思うし、エンドロールでみんなちょっと泣いてしまうと思う。
あととにかく応援上映したくなる。社長の一言一言に「そうだそうだ!」って言いたくなる。
(追記)
海馬社長が劇中で息をするように散財していくのだけどそのお金はあますことなくスクリーンに反映されているので観ている観客はひたすら札束でブン殴られているような気持ちになる金銭的バイオレンスアニメーションが130分間続くというのが『遊戯王 THE DARKSIDE OF DIMENSIONS』です。
心を豊かにしろ。人のブルーアイズを盗むな。
最近見たもの 『ヘイトフル・エイト』と『学園戦記ムリョウ』
『ヘイトフル・エイト』
登場人物全員悪人というアウトレイジアトモスフィアで繰り広げられる疑惑と暴力と巧妙な会話のフルコース。
最近では『マッドマックスFury Road』を見てるときも思ったけど、僕は到底味方になれそうもない二人がふとした折りに妙なコンビネーションを見せる瞬間が好きなのだ。『Fury Road』なら砂嵐後に勃発したフュリオサタンク周辺でのマックス(with鎖で繋がったニュークス)VSフュリオサチームの乱戦。ニュークスが置いたマガジンをマックスがノータイムで装填しフュリオサの顔面横に威嚇連射する流れ、最高だよ。もちろん本格的に旅が始まってからマックス&フュリオサのコンビネーションが急速に熟練していく瞬間も良い。
さて今作でそんな素敵な瞬間を見せてくれるのは賞金稼ぎジョンと彼に手錠で繋がれた犯罪者デイジーだ。お尋ね者と賞金稼ぎという関係故に、仲がいいわけがないのだけど、ふとした拍子に不思議な掛け合いというかコンビネーションを見せる。身体につられて精神も一瞬だけ同期しちゃったみたいに。そういう一瞬、つまり二人の「表面上の」関係性を忘れて父娘か夫婦のように見えてしまう瞬間が、映画のなかに何度かある。
移動と運動の枷が人間関係のドラマを産む、というのはこのヘイトフルエイトの密室劇という構造そのものがそうだし、Fury Roadもそういう側面がある。元をたどれば駅馬車だってそうだし、ファーストガンダムもそういうところがある。
移動と運動の枷、といえばラストの「因縁ある二人」もそうだ。それまでは絶対に和解するなんて考えられなかった「白」と「黒」の二人が同じ血の「赤」に濡れて移動もままならないまま寄り添いあい共通の敵に対して恫喝する。同じ色の血がここでは鎖だ。
そういえばジョンとデイジーも最終的に血まみれで繋がってるんだよなぁ。ゴア描写が「薄皮剥がせばみんな赤色だろ」という主張に直截的に結びつく。
嘘のない空間に残る鉄臭い爽快感。最高だなぁ。
『学園戦記ムリョウ』
『ムリョウ』を見るのと同時に『ヨコハマ買出し紀行』を再読していて、この二つの作品は時間のスケールが現今のソレとは違う、という感慨を抱いた。
単純に時間がゆっくりと流れる、という話ではない。『ARIA』は火星時間という設定を用意してその「ゆっくりとした時間」というものを描いていたけど、あれはこれとは少し違うと思うのだ。
じゃあ『ムリョウ』と『買出し紀行』の時間は何かと問えば、それはやっぱり一つの未来的な感覚における時間なんじゃないかと思う。流れている時間は今の延長線上にあるもののはずなのに、未来の彼らの感覚はそれを別様に捉えているから、どこか異質に思えてしまう。今とは違う仕方で時間をとらえること、それって実は最も困難なSFを描く上での技巧なんじゃないの、と思った。
そしてそんな未来時間のなかで現代的な速度で急いでる那由多と若い杉田智和が可愛い。