未確認で進行形で備忘録

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2016年の映画ベスト10

 昨年末から年始にかけて積年の問題が一気に爆発し鬱状態が続いてた。そこからなんとか再起する形で色んなバイトを始めたり、好きな雑誌を手伝うことが出来たり、コレ絶対向いてないでしょっていう職の内定を貰ったり、どうにも激動の一年でした。だからここ数年と同じペースで映画を見たわけじゃない。それでも良いものを沢山見た気がするし、良いものを沢山読んだ気がする。世の中的にはホントに一年の出来事かよってくらい盛り沢山のクソを喰らったけど、そのなかで正気を保つためにはやっぱり映画や本が要るんだよなぁという感じが凄くする。

 

  そんなわけで今年の映画ベスト10に選んだものの感想をあらためて。

 

『淵に立つ』
 家族だろうが何だろうが人間は絶対的に孤独なんだ、ということが前提にないものは小説でも映画でも本当に怖い。その事実を厳密に踏まえていないものはどれだけ朗らかに取り繕おうが根本的に抑圧的だ。
 『淵に立つ』に登場する人間たちは絶対に孤独だし、それは最後まで変わることはないままだ。主人公の営む工場の轟音が声の交通を妨げるけど、実はその喧騒を離れて川のせせらぎしか聞こえない場所であっても心は全く通じ合わない。むしろ本当の不協和音がよりクリアに聞こえてくる。誰の会話も常に不穏なものが兆して終わる。そんな不協和音だらけの関係のなかで小爆発する突発的な衝動とそれにより生まれる悲劇と、怒り。その衝動とか怒りも、本当のところでその感情の根源が誰かに理解されることはない。でもなんかそれが心地よかった。この人は本当のことを描いてると思った。

 

『聲の形』
 わけあって二回見た。一度目は普通に友達と。二度目はある人に頼まれて、ある要素を確認するために。頼まれた仕事だから、二時間とちょっとのあいだ、自分の意識のおもてに剃刀を当てるようなこの映画に集中していなければならない。そのおかげで気づいた形を変えて反復される合唱曲のメロディや水面下で微動する喋れない硝子の心。映画はとても雄弁で、でもその聲には本当に耳と目を澄ましていないと気づけない。他ならぬ『聲の形』にそのことを改めて教わった。

 

ザ・ウォーク
 この映画についてはこのブログでもう書いた。
    それとは別に、ある講義で先生の話を聞いていて、この映画を思い出した。その先生は「『それに何の意味があるんだ?』とは言わないで欲しい。君たちの創造力はそれによって腐ってしまう」と激昂していた。根源的にその人を突き動かすそれをやる「意味」が、誰にでもわかる「意味」になることがあるかも知れないし、ないかも知れないし、遥かに先のことかも知れないし、そもそもそうなる必要なんて全然ないことなのかも知れない。でもこの映画は、その「意味」の変遷を発生させたんだとあらためて思った。それって凄いことじゃないですかね。

 

『団地』
 この映画についてももう書いた。
    人間のしょうもなさを丹念に写し取りながら、その巨大な諦念を宇宙に接続させるギミック。しかし遠近感は狂わないのが何だか本当に凄いなぁという気持ち。

 

『ヒメアノ~ル』
 これについても書きました。
 森田くんとタイトルが画面に現れ、映画のトルクがグンッと上がる瞬間の鮮烈な記憶。

 

『オーバー・フェンス』
 昨年末に『おかしの家』というドラマにハマって、やっぱりオダギリジョー最高なんだよなぁ……という気持ちだった。『重版出来』のオダギリジョーも最高でしたね。そしてこの『オーバー・フェンス』のオダギリジョーは、どのオダギリジョーとも違う、でもオダギリジョーじゃないとダメなオダギリジョーだった。淡々と反復される生活のなかで淡々とおかしくなっていってしまった男が、同じくどこかおかしい女と出会って、二人で一緒に治っていく話、にはならなくて、狂気の上に張っている薄氷を踏むような生を一緒に歩いていかない?という話になっていく。熱くない。冷たくもない。でも奥に漠とした絶望が埋まっている。そんなオダギリジョーの佇まいと、彼に相対する蒼井優の神経質なふるまい。このバランスは本当に凄くて、それゆえに映画のまとう「空気」についての記憶が濃い。

 

この世界の片隅に
 片渕監督は歴史に誠実であったり、それを描くことに誠実であったりするのは当然なんだけど、それ以上に映画について圧倒的に誠実なんだと思う。嘘であることに誠実だと、それを描くための方途に誠実になる。嘘を作りながら、それを本当のこととして描くために、筆致は正確でなければならない。
 僕は天才や感性型と見られる人達が論理なんかそっちのけでものを作っているというのは絶対に嘘だと思っていて、そのように見られる人達は誰にもわからないその人独自の仕方で完全に理詰めでものを作っているんだという確信がある。だから本当に片渕さん天才なんだよなぁって感じ。
 すずさんの生活の実在感が惨劇の立体感を底上げして、それがまた続いていく生活の豊かさと強さを高めていく。最後にはわけわかんなくなって気づいたらパンフとサントラCDを買っていた。

 

『チリの闘い』
 鮮明に残っているのは、陽光のなかで荷台を軽やかに引いていく男の脚の動き。この映画はチリのアジェンデ政権下で起きた右派の非道、左派の分裂、民衆の抵抗を描くものだけど、その政治的な観点を保ったまま、その肉体の躍動を記憶に刻む。それによってあっ、この人たちはちょっと前まで生きてたんだということ、そして当時の状況にちゃんと怒ってたんだということを意識する。そしてここで起こってたことはまだ全然終わってねぇんだよなぁ。

 

『KINGSGLAVE FINAL FANTASY XV
 友達が「これを見て“力”を感じろ」と言ってきたので見に行った。“力”を感じた。
 フルCGの映像は実写に迫ったとかそういう次元じゃない。刺々しさと滑らかさの混然とするメタリックな装飾が目を引く都市世界を高彩度で描き出し、更にそこに住まう移民である主人公たちと彼らが集う裏町の飲み屋の汚さも違和感なく溶け込んでいる。この世界はここにあるという強烈な説得力。その説得力はそのままに物語はクライマックスの巨大で峻烈なバトルへと跳躍する。
 そしてそんな激アツなバトルを繰り広げる主人公の物語。彼は移民で、王様に拾われてその国で「王の剣」として生きている軍人だ。しかし展開の進行に従って彼がその国と王のために戦う外面的な理由はみるみると剥がれ落ちていく。仲間は裏切り、親友は離れ、彼は独りになる。最後に残るのは彼自身の、誰に与えられたものでもない、そこにいる意味。そういう、自分で掴んだ生きる意味を全うする人の話はすぐ好きになる。それを掴んだ人間だけが、本当の意味で自由でいる資格を持つ。そういう気がするから、見ているだけで心が晴れる。そんなこんなで手に汗を握るという意味ではこれが一番の映画だったかも。

 

『遊☆戯☆王 THE DARKSIDE OF DIMENSIONS』
 この映画についてもしっかり書いた。映画が極度のスピードというかヴェロシティを獲得し遥か先に行ってしまう!社長と一緒に!そんなシーンを見てしまった!という感動。