未確認で進行形で備忘録

映画とかアニメとかについて書きます 連絡先⇒ twdkr529@yahoo.co.jp

最近見た映画『A2』『クリーピー』『ヒメアノ~ル』『日本で一番悪い奴ら』

A2

 『FAKE』がやたらと大ヒットしている森達也監督のオウム潜入ドキュメンタリー映画完全版。オーディトリウムの夜8時の回、参院選開票日に見にいって来た。

 内容は大まかには知っていたけれど、すべてがこっちの予想を越えた。サリン事件から5年を経たオウム真理教の信者たちは、カルト宗教の印象にそのまま合致するようなものではなくて、世間から弾圧されてどこにも居場所がなくなってしまったまつろわぬ民のような存在だった。もちろん麻原が振り回した安易な終末論は警戒して然るものだし、サリン事件の被害は凶悪に過ぎる。でも宗教はもともと生活を律するためにあるもので、その独自のルールを度外視すれば、彼らは普通の、ちょっと色々と考えすぎるだけの人なのだと思う。

 彼らにとってはごく普通になっているオウムの生活は、浄土真宗でほぼほぼ無宗教な僕のような奴からすると確かにかなり秘教的で、森達也監督のカメラがその内部にあって内情を映してくれていなかったらじんわりとした恐怖をもたらすものだっただろう。

 だからオウムの住居の周囲に住む普通の人々は彼らを街から追放しようと必死になる。公民館や公園での反オウム集会、デモ行進、拒絶の意志を全く隠さないシュプレヒコール。今の言葉ならヘイトスピーチという言葉が当たりそうだけど、しかし現代のソレとは違って、その拒絶は無根拠なわけではない。何の前触れもなく都市部を襲ったサリン事件。化学兵器テロのトラウマがまだ残る五年後。確かに怖い。その街に住んでいたら僕もたぶん忌避してしまう。

 映画のなかで、自警団と化しほとんど右翼の街宣集団との区別がなくなった普通の人々の形相はオウムの人たちよりよっぽど人を殺しそうなもので、そのことが、観客である自分もそうなり得るという真理に気付かせる。条件さえ揃えば誰でも無限に暴力的になれるっていうのはつい最近19人殺した奴が示してくれたことでもある。

 ただその一方で、敵意を越えて仲良くなれることもある。オウムと近隣住民が、家の塀を越えて一緒に作業したりする。たぶん恐怖と希望はあっても絶望はない、そう思って参院選開票結果が既に出ている現代に戻ったのでした。

 

クリーピー 

 正気と狂気の境目はつねに曖昧で、しかしその境目はドス黒い瘴気を纏っている。西野家の庭の草、地下への入口。一番怖いのは狂気に身を浸すことじゃなくて、その境目を直視することなんじゃないかと思う。あの地下の、凡庸でクリシェに溢れたオブジェや色合いは何だろう。銀座でやってたシリアルキラー展でも思ったけど、狂気の行きつく先はもしかして果てしなく凡庸なものなんじゃないのか。

 西野だけではなく、実はすでに高倉もその境目に位置する者で、最後の康子さんの絶叫はその事実を直視してしまったことによるものじゃないかと思う。康子さんが西野の元へ行ったのは、狂気に完全に浴することで境目の不安から脱出しようとした(でも意外とチンケだった)からだとどっかで思っている。

 あと「君を守る」という巷に溢れてるけど実は最悪な男尊女卑センテンスを西島秀俊に言わせてからしっかりへし折ってるのが痛快だった。

 

ヒメアノ~ル 

 V6森田くんのもたついた粘膜質の暴力が濱田岳のセックスとオーバーラップする。暴力の本質、執拗な反復性をこのシーンが示している。映画において記憶に残る暴力、観る者の心身に残る暴力はつねに、音響に肉の感触があるものか、執拗に反復されるものである。北野映画の暴力に異様なリアリティがあるのはこのせいだ。たけしはモノホンのヤクザを知っている。

 イジメが死ぬほど残酷なのは、その暴力は振るう主体にとっては一時のものでも、振るわれた被害者にとっては未来永劫リフレインする地獄の記憶になるからだ。トラウマのフラッシュバックが生活の一部になり、生きることそのものが苦痛になる。ヒロミみたいなどうしようもないのはこのことにずっと気付かないままなんだろうな。更に干されて干からびればいい。

 ヒロミは何故かまだ生きているけれど、森田くんにとってのヒロミ、河島はもう死んでいる。しかし別に死んでるからって変わりはないのだ。破壊された自尊心も学生生活も帰ってこないし、フラッシュバックは止まらない。だから最後の「麦茶持ってきて~」が死ぬほど哀しくて、輝かしい。

 

日本で一番悪い奴ら

 綾野剛の長い手足。醤油味の顔。完全に吹っ切れたオーバーアクション。その菅原文太も喜びそうな勢いに惹かれた仲間たちが集まり、幸せな時間が続くと思ったら実はもう既に綻びは生まれていて、気付いたときにはもう終わっている。

 この印象は青春というやつだと思う。高校生やら大学生やらを描く青春映画には微塵の興味もない。その辺にあるものを何でわざわざ映画にするんだろう。青春が存在しなかったからこんなこと思うのかな。ただそんな俺でも『仁義なき戦い』のような青春映画は大好きだ。つまり遅れて来た青春の、遅れて来た終わりが大好きなのだ。

 そういう俺の大好きな青春は、やっぱりどこか間違っている。綾野剛演じる諸星もその仲間たちも一生懸命に周りのために働いている。しかしそれは周りの評価を得るためで、その行動の余波で何が起こるのかには目もくれない。この極端な視野の狭さはまさに青春そのものじゃないかと思う。部活(知らないけど)や不良な行動(もっと知らないけど)に熱心な人たちのナワバリ意識、あの「俺達の世界」という雰囲気。やっぱりヤクザはあの延長線上のものでしかない。おそらく警察も。

 幼さを然るべきときに開放出来なかったか、それだけでは足りないくらい無尽蔵に幼い人たちの、遅れて来た青春。その歪みを利用する奴らがいる。警察にもヤクザにも。そいつらが罰せられることはない。なんだかなぁ。