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未確認で進行形で備忘録

映画とかアニメとかについて書きます 連絡先⇒ twdkr529@yahoo.co.jp

雑記 押井守映画祭(『御先祖様万々歳』等)、『団地』、『黄金のアフガニスタン展』

 最近面白かった映画や展覧会についてざっくり書きます。

 

押井守映画祭』

 池袋新文芸座で行われたアニメスタイルオールナイト『押井守映画祭』。今回の目玉は『御先祖様万々歳』全話一挙上映だったと思う。

 以前この映画祭で総集編『MAROKO-麿子-』が流れたことがあったけど、これについてトークショーで押井守は「僕はあんまりMAROKO好きじゃない」と言い切っていた。いわく「一番面白いムダなところが全部削られている」。

 そして実際に見た『御先祖様万々歳』全六話、たしかに「ムダなところ」が異常に多い。しかしそんな圧倒的に不経済なムダの数々が正しく面白いのだから不思議である。

 押井監督と千葉繁さん、アニメ様とライターの桑島さんが登壇したトークショーにあった発言で一番覚えているやり取りは、

千葉「舞台でありうるようなノイズ、台詞を言うために下っ腹に力を入れて出てしまうオナラとかをわざとたくさん入れてる」

押井「本来、人間の動きにはムダなところが大量にある。それを出来るだけ拾う」

 うろ覚えだけどこんな感じのやつ。なるほど、動きと音のノイズ。台詞だって地獄のように胡乱で七面倒くさい理屈だらけだ。見やすさというものに完全に背を向けて、音の次元と動きの次元、演出の次元でそれぞれ偶然を捏造し、現実のパロディである舞台のそのまたパロディを作るという、色んなところでノイジーな作劇。深夜にひたすらこれを見て、『天使のたまご』『立喰師列伝』と続く鬼のようなラインナップ。逆に眠くならない。こうして戸籍不詳の孫娘から始まり国籍不明のインド人で終わる夜は理屈っぽく更けていくのでした。

 

 押井守オールナイトとなると必ずアニメ様と桑島さんが自然にスッと混ぜてくるものだから一体何度見たんだかもうわからなくなってる『天使のたまご』。「水」のモチーフや緩慢な画面運び、そして押井さんの言葉からこれがアニメでタルコフスキーをやろうとしたものだっていうのはおそらく確かだと思うのだけど、改めて意識して見てみると、その「アニメでタルコフスキーに迫ること」の途方もない難しさを思い知る。

 タルコフスキーの凄みは画面上にはびこる光や草、そして水といった自然の微粒子レベルの運動を切り取ることで時間と空間を演出する妙技で、それはアニメでは殆ど不可能に近いのではないか。それはもちろんアニメと実写を比較しての優劣の問題ではないけれど。

 

『黄金のアフガニスタン展』

 講義でオリヴィエラの『永遠の語らい』を見た。ボンペイやアテネなど文明を象徴する様々な遺跡を巡りながらポルトガルからインドまでの航路を進む母娘の旅を追う、なんとも退屈なほとんど演出なんてなされていないかのような映像がひたすら続き、それらが最後の文字通り爆発的なエンディングによって、歴史を建築する広大な時間そのものの寓意になっていたんだって気付く。つまり西から東へと文明を巡る物語であり、それは現代、文明が直面している原理主義的暴力を描いて終わるのだ。

 その翌日に、全く意識せず、友達と上野でやっていた『黄金のアフガニスタン展』を見に行った。ソ連の軍事介入や内戦という暴力をギリギリで回避した、たくさんの文化が展示されていた。かつてシルクロード上の『文明の十字路』として栄えた遺跡から発掘されただけあって、その空間はまさに文明のキメラ。王の墓から掘り起こされた衣服には黄金が散りばめられ、ギリシャ建築とインド装飾が並び、ギリシャ神話と仏教が自然に同居する。長い時間と広い地域の文明を、オリヴィエラの冗長な映像詩を反芻しながら浴びて行く、なんとも稀有な体験だった。

 

『団地』

 「シネ砦」か何かのインタビューで阪本順治監督がSFへの興味を語っていて「マジか?」と思いながらそれが映画になるのを楽しみに待っていた。まさか『団地』だとは思わなかったけれど。

 団地映画といえばもちろん最近は是枝監督の『海よりもまだ深く』があった。是枝監督の団地演出は団地という空間の楽しさを描いていて滅茶苦茶良かったものだけど、しかしこっちの団地演出はそれだけではない。団地という空間の楽しさはもちろんのこと、団地に生起する人間関係の息苦しさも描いていた。

 小さな噂が巨大な疑いに化け、ちょっとした信頼が反感に逆転し、さもしい欲望が途方もない哀しみを産む、「しょうもない」という関西の言葉がぴったりと当て嵌まるような小さい、しかし時々ビックリするほど大きくなる人間の嫌な部分が凝縮された団地という場所。それがまたクルッと転換して別世界、別次元への入口に変化する。そのおかげで産まれるおかしなパースペクティブが、この映画のまとう巨大な厭世観を際立たせている気がする。

 狭く息苦しそうな、だからこそ撮り方によっては無限の表情を見せてくれそうな細部を持つ団地の部屋で、エクストリームにおばちゃんな藤山直美とおじさんな岸部一徳の演技が活きる。しかし、二人は「所帯じみた」存在であるのと同時に、そこから遊離した存在としても演出されているように見える。この世に在る理由をゴッソリ奪われているような。それは登場人物の一人である少年も同じだ。彼らの「そこにいるし、そこにいない」という佇まいが、終盤の展開に結実する。

 そして斉藤工が素晴らしかった。首に一瞬遅れて追いつく目の動きについて、ほんとこの人たくみだなぁって溜息もれた。

 

『FAKE』

 猫がかわいい。