未確認で進行形で備忘録

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脚本起こしとハコ書きの違いについての「わかりきったこと」

 脚本起こしというものを初めてやってみて発見したことが少しあり、時間が経って言葉に出来るようになったので書いてみる。

 発見したことの一つは、何故プロの人が完成品の映像を分析するために脚本を丸ごと起こすことはせず、「ハコ書き」という簡略化したプロットと脚本の中間物のようなものを起こすのか、だ。単純に時間と労力の問題でもあるだろうけど、この二つにはまったくの違いがある。

 そもそもR.O.Dの一話で脚本を起こした動機は「倉田英之の脚本を読みたいけどその類で手に入るのは『かみちゅ!大全ちゅー!』というムックに収録されたCDドラマ脚本だけで、映像用の脚本は手に入りにくい、ならば自分で書いたるか」という謎の思いつきだ。倉田英之による脚本が読みたいんじゃなかったのか?バカか?いや、何かしら映像を見る上でヒントになることもあるだろうと思ってはじめたことでもあるけれど。

で、割と早くに後悔しはじめた。というのは、これが演技に凝りに凝る舛成孝二監督のコンテ演出回であり、しかも一話というだけあってお金があるのか細かいこだわりがハチャメチャに多いからだ。そしてそんな細かいこだわり、つまりアニタやマギー、ミシェールにねねねの小さな演技の一つ一つがシナリオ的にも重要なものに思えてきてしまう。何がどうしてこんなにアニメR.O.Dに惹かれていたのかはよくわかり、それはそれでハイパー有意義だったのだけど、今回はどうにも困ってしまった。要するに見ている映像のどこまでがテキスト構想由来のもので、どこまでが映像構想由来のものなのかがわからないのだ。

 だから多分プロは映像からテキストを起こすとき、「ハコ書き」のレベルに留めるのだ。ここからはアマチュアの推測だけど、特にアニメでは脚本というのはイメージとテキストの中間にあるものだ。スタッフが共有しているイメージを脚本家がテキスト化する。それはテキストとして完成されてはいけないし、次の具体的イメージ化への道標になるものでなければならない(勿論テキスト以前のイメージから出発する作家もいらっしゃるけれど)。

 完成された映像からテキストを抽出すること、とりわけ元の脚本を抽出することは難しい。もともとイメージとテキストの間を漂っていた脚本が、一度イメージに埋没したのだから、それをもう一度掬い上げることなんて完全に無理。やるまえに気付け。

 「ハコ書き」を起こす目的は映像からテキストとしての祖形を掬い上げるのではなく、完成した映像をそのままざっくりとテキスト化する営みなんだ。輪郭もあいまいな映像中のテキストを探すより、映像そのものをテキストとして読んで写すほうがずっと良い。

 頭ではわかっていたことだけど本当に無理なんだと身に沁みてわかった。でも出来上がった起こしはこれはこれで色々(自分で読むには)面白いし、別にいいかという気持ちもある。

 まぁ倉田英之脚本集とかスタジオオルフェ脚本集とか出てくれたらこんなことはしなくてよかったんだけど。出してくれ倉田英之脚本集。もしくはR.O.D書いてくれ。いやください。