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ドラマ『おかしの家』の石井裕也について


[新ドラマ]主演オダギリジョー 若手監督・石井裕也が送る小さいけれど、暖かな物語『おかしの家』10/21(水)スタート【TBS】

たぶんサークルの内部雑誌に載るやつだけど、なんだか勿体ないのでブログにも載せます。

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 ある人物、ある集団、ある空間にとって決定的な変節の瞬間を、そのまま「瞬間」としてとらえずに、秒や分といった明確な区切りのないたわんだ持続のなかで、そのまま決定的なものとしてとらえる。そうして境界線を失った時間はそのまま映像の語る物語の外側へ、直接に接続してしまう。『おかしの家』はそんな種類の時間を丹念にとらえている。

 2015年の9月から年末にかけてTBS系深夜枠で放送された『おかしの家』。演出、監督を担当したのは映画『舟を編む』や『バンクーバーの朝日』、『ぼくたちの家族』などで知られる石井裕也である。思えば上述の3作においても、同じ傾向はあった。

たとえば『舟を編む』は、うだつの上がらない青年が辞書編集者としての道を定め、様々な人との出会いと永遠の別れを経験しながら数年がかりで辞書を完成させる、という物語だ。しかし時を経るなかで産まれ変形しつづける言葉を扱う以上、辞書に完成という終わりはあり得ない。これから出会うであろう無数の言葉たちを象徴するように、無数の白い光りを乱反射する海面を見つめる主人公とその妻の背中を映すラストショット。

戦前のカナダ・バンクーバーの日本人街に実在した野球チーム「バンクーバー朝日」を描いた『バンクーバーの朝日』。「朝日」の青年たちは体格の全く違う白人チームに対抗するため、驚くほどに画面映えのしない(しかし強烈に『映像映え』のする)「バントと盗塁」というプレースタイルをとる。その粘り強い戦術は人種の違いと差別を乗り越えてカナダリーグ内で賞賛を勝ち取っていく。だが本国の真珠湾攻撃により、日本人街に住まう人々はみな収容所へと送られることとなる。家と仕事と生活を接収され、兵隊に誘導されていく人々。その一方向の流れは、オープニングで映されるカナダに向けて海を渡る移民船の姿と重なる。流れに逆らい一瞬出来たよどみのなかで再会を約束する「朝日」の青年二人。画面は暗転し、残酷な「その後」が語られて、観る者の生きる現在に接続する。

舟を編む』と『バンクーバーの朝日』、そしてあらすじでは全く伝わらない魅力ある細部と演技に溢れた『ぼくたちの家族』において共通しているのは、はじまりの無さと終わりの無さ、である。主題となる事件や事象は映画がはじまった時から既にはじまっており、中心人物とカメラの視点はそこに合流するだけだ。辞書作り、移民、戦争、病、家族関係。開幕以前からそれは始まっており、そして閉幕以後も終わらない。時の流れのなかの一つの事件を切り取りながら、その切り取り線はあまりに曖昧なのだ。そしてその切り取り線の曖昧さという趣向は、シナリオの次元だけではなく、演出つまり映像の処理や俳優の粘り強い演技にも現れている。例えば『舟を編む』の主人公は焦点の定まらない背景のなかにかねてから存在し、『バンクーバーの朝日』において「朝日」の逆転はバントという次に繋げる戦術によって決定づけられ、『ぼくたちの家族』で事態を好転させるのは実ははじめから何も変わることのないある意味でドラマ性の薄い人物の行為や言動なのだ。これらすべては瞬間ではなく経過のなかでとらえられ、そしてその「決定的な経過」そのものの重要性に鑑賞者自らが気付くその時だけが「決定的な瞬間」となる。

そんな作品群の後に石井裕也が手掛けたのは『おかしの家』。東京の下町を舞台にした連続ドラマだ。

お婆ちゃん(八千草薫)から受け継いだ月の純利益3万円の駄菓子屋「さくらや」を経営する33歳の主人公「桜井太郎(オダギリジョー)」と、脚本家志望で33歳のニート「三枝(勝地涼)」、営業で精神を病み退職した32歳の後輩「剛(前野朋哉)」、そして客の来ない銭湯を経営する54歳の男「嶋さん(嶋田久作)」。社会からこぼれ落ち時代に取り残された彼らは、毎日をさくらやの裏庭で駄菓子を食べて駄弁りながら過ごしている。そこにシングルマザーとして帰郷した主人公たちの同級生「木村礼子(尾野真千子)」が合流するところから、物語は始まる。

IT業界で成功をおさめた友達の訪問を恐れたり、奇行の目立った同級生を思い出しその奇行の原因や彼女に対して行った自分達の行為について知り後悔し、「ギリシャ、いじめ、食品偽装、大気汚染、原発、テロ、シリア」という無暗に大きな問題について考え一瞬で挫折したりしながら、優しいお婆ちゃんに見守られたその空間は、段々と終わりに近づいていく。そんな優しい空間である「さくらや」の美術は、『舟を編む』のカビ臭そうな辞書編集部や主人公の住む古いアパート、そして『バンクーバーの朝日』では日本人街の巨大なオープンセットを創造した美術監督、原田満生による仕事である。いずれも時間の経過そのものを閉じ込めたような、主題を補強する圧倒的な舞台装置だ。

そして「素敵な時間は、いずれ終わる」というキャッチコピーが示す通り、楽園的なさくらやの空間と、オープニングで映される晴れた日の隅田川のようにゆっくりと流れる時間、その全てがそれ自身を終わらせる準備のためにある。時代に取り残されたような時間の流れは、全て脱臼した決定的な瞬間なのだ。

ある人物の行動、挫折。それに影響された他の人物の行動と結果。その結果がまた皆に影響して、さくらやの裏の空間は段々と変化し、そんな変化を優しく見守るお婆ちゃん自身も変化していく。だが、明確な変節は数々あれど、それは点ではなくどこか間延びした線のもとで現れる。「素敵な時間」にも終わりはくる。しかし最終回、最後の数分の主人公の行動は、キャッチコピーそのものを少しだけくつがえすものでもある。

このドラマはオリンピックを控えて何らか多くのものを失いそうな東京への小さな抵抗であり、哀歌であり、同時にそのなかで生きる人々への応援のようでもある。劇中、お婆ちゃんが頻繁に口にする「無理しないでね」という台詞と、EDに流れるRCサクセション『空がまた暗くなる』の「大人だろう。勇気を出せよ」という詞が、互いに反発せずに混ざり合いながら共存する、そんな「素敵な時間」をここに発見することが出来る。そしてその時間は、ドラマの外側へと繋がれているのだ。