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足立正生監督の『断食芸人』を見た


足立正生監督×フランツ・カフカ!映画『断食芸人』予告編

 宇都宮の商店街にふらふらと現れ、そのままシャッターの前に座り込んだ一人の男。何も語らず何も食わずただそこに座り続けるその男は、次第に「断食芸人」として通行人やマスコミに注目され、謎の集団の興行に利用されていく。彼自身は何も語らないまま、したがって一度として「断食芸人」を自称することのないまま。

 見どころや論点は大量にあると思うのだけど、一つ考えるべきだなと思ったのは「私的な言葉」と「公的な言葉」について。この二つの区別について僕がはっきり意識したのは、他ならぬこの映画にも出演している詩人、吉増剛造の本を読んだときだった。そこで吉増剛造は何かを伝える言葉というものを手紙に書かれるような私的な言葉とそれ以外を区別していたと思う。大量の割註が入り込む異様な詩の形についても、吉増剛造は「メディアとの闘い」と語っていた。

 吉増剛造はたとえばこの映画の原作者であるカフカの筆跡にも注目していたりする。また詩を書く際には紙の質感にこだわり、そして筆触についてはパウル・クレーの描く線までも意識していると言っている。しかしその意識は既成のフォントで印刷された書物として流通する時には、いくらか捨象されてしまうものだ。我々の手に届く書物はその「書」のぬけがらで、本当の凄みは書かれる瞬間や詠まれる瞬間にしかないんじゃないだろうか、とときどき思う。

 そんな吉増剛造の詩の凄みの一端は、たぶんこの映画に本人役で登場する吉増自身の朗読を聴き見ることで、触れることが出来る。突然「断食芸人」の前に現れた吉増剛造は座り込み、紙をひろげてインクをそこにポタポタと垂らす。カーン、カーンとトンカチを地面に打ち付け、紐でつないだ石をくわえて朗読する。そういった、あたかも詩の言葉がなめらかに流通してしまうのを遮るように、わざと自分の声と言葉に異音で「ひび」を入れる方法は、吉増剛造の独自だろう。そしてその様子は見ていてマジで怖かった。

 「言葉の流通」というのは、上映後のトークショーでの僕のざっくりとした質問「吉増さんの出演の理由は?」への答えにも繋がる問題だ。監督は「虚実まじったメディアの言葉が氾濫する時代でも、詩人の言葉だけは信用に足るという風潮が世界にはまだある。だから吉増剛造に頼んだ。カフカ魯迅が重大なモチーフになると言ったら快諾してくれて、勉強会をやりましょうとも言っていた(記憶が元なのでどこか間違ってるかも)」。男の行為に注目したのはSNSにハマる少年や野次馬的な群衆であり、「断食芸人」というラベルを貼ったのはTVのメディアや興行師たちである。そして大量の群衆にどれだけ追求されても、男は一言も発しない。そうして浮ついた言葉だけがひたすらに流通し、男の行為の目的に辿り着くことはないまま、あるいは目的があるのかないのか、あったとしても大層なものなのか矮小なものなのかはわからないままに、男の最初で最後の言葉とある行動が結末に待つ。その最後の言葉はある人物一人に向けられた私的な言葉だ。徹底的な公的な言葉の流通というものへの抵抗が、この映画には一貫してあると思う。

 ただこれには矛盾がたしかにあって、それは映画というのは根源的に公的で流通しなければならない「メディア」だということだ。でもそれでいいと思うし、そうあるべきだと思う。吉増が公的でしかあり得ない言語に私的な「ひび」を入れるように、公的でしかあり得ない映画に私的な「ひび」を入れること。そんな私的にひび割れたものが公的に流通することで文化は多様になって、最終的に制度的になりがちな公的なものをひっくり返すことになるのかも。そういった「ひび」の痕跡は、例えば普段見ていて凄みを感じるアニメやTV番組にでも見出せそうだ。